叶えられた願い・砕かれた望み
「これは・・・何のつもりだ」
机に投げ出されたその辞表に、俺の上司の表情は凍った。
しばしの沈黙の後、視線を俺へと移し、呟く。
突然の俺の行動は、彼の脳内では理解されなかったようだ。彼の少し太めの眉毛が垂れ下がり、眉間にはっきりとしわができた。
「・・・見たままの意味です」
だがこれはもう決めたことで。目の前の者が何を言おうと覆すつもりはない。
俺の望んでいたものは、こんな仕事ではなかったはずだ。もう何の思いも感じられなかった。
その場に流れる空気は、きっと重いものだったのだろう。側で聞き耳を立てる元同僚達の生唾を飲む音が、生々しく聞こえてくる。
そんなことで現場での仕事が勤まるのかと考え、まだ自分がここから抜け切っていないと気付いて、俺は苦笑いをこぼした。
それは冷たい、乾いた微笑み。
「訳を、聞かせてくれるか? お前は優秀な刑事だ。理由もなしにこんなことを思い立った訳でもあるまい」
随分と世話になった宮下警部が、一つ、小さな溜息と共に俺に問う。
内心驚きに満ちているだろうそれを隠し、何とか思い返させようと、できるだけ冷静に話をする。
それにまた笑いがこぼれ、何が可笑しいのかと自問自答。
「・・・俺は、優秀なんかじゃありませんよ」
「な、何を! 迷宮入りと言われた事件を、お前がいくつ解決してきたかは自身が一番知っているだろう!?」
宮下警部のその台詞に、見学(と言ってはヤツラは怒るだろうか)していた者達が、ガタンと席を立って騒ぎ立てた。そうだそうだ、あなたはこの第二課の宝だ、などと。
たかだか一匹の人間を宝扱いとは、あまりにも情けない。俺が数百万の金に姿を変えることができるとでも思っているのか。
そう問えばきっと、長い目で見ればそうだとか、貴方がいないとそれだけの価値が減るだとか、趣も何もない事を言うのだろう。宝が損失を出してどうするというのだ。
そんな彼等をおめでたい奴等だと思う俺は、もう心が荒んでいるのだろうか。
・・・それもまたよしだろう。
いくらでも、荒めばいい。病めばいい。
もはや今となっては、全てがどうでもいいように感じられた。
「人ひとりの命も救えない奴が優秀だなんて、笑っちゃいますよね」
決して本当に笑えはしないけど。
窓から吹き込んできた生暖かい風が、俺の頬を撫でていく。
春風なはずのそれは、決して優しくなどない。今の俺には凍てつく刃にも感じられた。
本当に刃だったらどれだけいいか。この身を切り裂く、刃ならば。
「・・・あれは、当然の報いだ。お前は正しかった。何も間違ってはいない。何を落ち込む? 何故お前がそんなことで辞める必要がある?」
そこまで聞いて、俺はきびすを返した。これ以上は何も聞く必要はないと思ったからだ。
なんてことは無い、彼もまた、「警察」だったのだ。法と秩序にがちがちに固められた、極めて普通の「良き警察」だったのだ。
「ま、待て! その若さで職を失う気か!? お前は世界が必要としているのだ、早まるな!」
こつこつと、靴と地面が出会う音。
引き止めるような皆の声は、むしろ俺の怒りを買うものでしかなかった。
だがそれも、意識を向けなければただの雑音に過ぎない。興味を示さない物に耳は向かない。
そういう意味では、今の俺には、例えどんな物でも雑音に聞こえるだろう。
それがたとえ、己の心音であっても。
いや、むしろそれこそが・・・。
晴れ渡った太陽は、今日も変わらず照りはえている。
地上で何が、あろうとも。
「園部!」
「くそくらえですよ、宮下警部。お世話になりました」
胸ポケットから取り出した手帳を、地面に落とす。
固い金属音が鳴り響いた。それを拾える者は・・・沈黙を破れる者は誰もいなかった。
コツコツと、靴と床の、デアウオト。
さぁ、出口はすぐそこだ。
何度も何度も通ったそのドアは、固い鉄格子と何が違ったのだろうか。
ルールを守れば、いつでも出入りできるそれ。そして、金輪際通ることのない、それ。
俺は、毎日通い続けた職場のこのドアを閉めることに、何の抵抗も抱かなかった。
もう何の、未練もなかった。あるのはこの、虚しいばかりの空虚だけ。
ドアが閉まる。古いドア特有の音と共に、かつての俺をそこに残して。
全てに終止符をうつように・・・。
彼を殺したのは俺のようなもの。
事実、最初に引きがねを引いたのはこの俺だ。宣告を言い渡したのは、誰でもないこの俺自身なのだ。
俺は、彼の何を分かっていたのだろう。
何を分かっている気でいたのだろうか。
あの事件から1日たった今でも、俺は彼の行動の意味が分からなかった。
結局俺は、彼のことなど何一つ分かってはいなかったのだ。名前と、境遇とを知って、まるで全てを理解しているかのように自惚れていたのだ。
そしてそれは、今更どう思ったところで全く無意味なもので。
後の祭りとはよく言ったものだ。後悔という字は非常に良くできていると思う。
人の考えなど分からなくて当たり前。
そう言った人は今までに何人いただろうか。
どうせ誰も自分の考えなど分かってくれないなどと泣き叫ぶ人間に、俺は何度出会っただろうか。
そして、その時俺はどう答えた? その場に適するように、茶を濁して相槌を売って。
馬鹿な行為だ。
所詮俺は神ではなく、ただの間抜けな人間。
小さなため息と共に、「自分のことを他人が知れる訳がないだろう。自分ですら分からないのに」と、心で俺は何度思った?
今の自分にこそ言ってやりたい。
オマエハナニサマノツモリダッタノダ。
俺が聞いた最後の言葉。そんなちっぽけな言葉の意味すら、俺には分からない。なぜあんな行動を取れたのかも・・・。
俺は結局、彼に何をしてやれたのだろうか。
あんなにちっぽけで、それでいて何よりも大きいあの言葉を言われるほどのことを、俺は彼にしてやれたのだろうか。
「・・・・・・な訳ねぇよな」
乾いた笑みを見せる俺をあざ笑うかのように、風に運ばれた木の葉が目の前を飛んでゆく。
「お前と違って俺達は自由だ」と囁きながら、俺に空想の手錠をかける。
罪の証を・・・刻み付ける。
それでも俺の歩みは止まらない。
何か理由がある訳でもないのに、早く、早く家に帰りたかった。
・・・・・・夢だと、まだ思いたかったのか。
その、家へと続くいつもの道は・・・待つ者がいないというだけで、やけに重苦しいものに感じられた。
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